2010年8月5日木曜日

小林傳司(こばやし ただし)先生のインタビュー その3

3.科学と一神教


話は変わりますが、科学というものが何処で生まれたかと言うと、これはヨーロッパです。今我々が科学とみなしているものは、16~17世紀のヨーロッパ人が考え出したものの見方によって生じたと言えます。
でも、人類誕生以来、世界中の人々がこの自然を眺めてきているわけです。どうしてヨーロッパだけで生まれたのかと言うと、いろいろ不思議でしょう?
しかも、16世紀という時代で世界を輪切りにした時に、ヨーロッパは物の豊かさという面では、東洋と比べると圧倒的に劣っていたわけです。西洋人がアジアに香辛料を求めてやってきたことからもわかるようにね。
しかし、その当時のヨーロッパの特徴としてもう一つあげられるのは、キリスト教文化圏であったことです。
高校の時にもう習ったかもしれないけれど、ニュートン力学に言わせると、身の回りのものが地球に向かって落ちていくことと、地球が太陽のまわりを回ることは同じ落下なわけです。同じ理屈組織で説明できるのだということをニュートンは示したのですよね。
でも、見えているものは多様じゃないですか。例えば、紙にしても木の葉にしても落下するときは、ニュートン力学で解けるようなストーンっていう落ち方はしないですよね。そういうことの方がむしろ多いじゃないか、と普通は思えるわけです。
にもかかわらず、こういった多様な落下の裏側に統一されたフォーマットを発見する前に、どうしてそのフォーマットの存在を彼らは信じることができたのか。
いくら見ても、そのような発想は生まれてこないでしょう。だから、他の多くの地域の人たちは、自然界は多様であるというような見方をしていたわけです。
ところが、キリスト教文化圏ではその自然の裏に何か統一されたフォーマットがあると信じていた。
宇宙の起源という問題は、昔から人々の関心のひとつになっていたわけだけれども、キリスト教というのは神様が一人だけっていう一神教だから、日本を含めた他の多くの地域の逸話に見受けられるような、神々の性行為によって世界が生まれたという考えがなかった。
「神が光あれといって光が生まれた」というように、宇宙は神様のひとつの作品だという発想だったわけです。
そこで、ガリレオは「神様は二冊の本を書いた。」と言っている。
「一冊は聖書、そしてもう一冊はこの自然だ。しかも、この自然は数学の言葉で書かれている。その自然を解読することが神の偉大さをほめたたえることになるのだ。」ともね。
そういう感覚を持っていたのが16世紀のヨーロッパとも言えます。
それで、そのような特異な文化から生まれてきたのが科学というわけです。


―科学は一神教から生まれたということですか?


そういう風にさえ言えるのではないかとね。
当 時としては、技術的なものでいえば、中国といった地域の方が断然進んでいた。紙も羅針盤も中国が起源だしね。言ってみれば、技術というものは豊かさとそれ なりに結びついているわけですよね。一方で、ニュートン力学というのはそうではない。ビジネスモデルとは全然関係ないよね。だけど、そういうことを考えて いた人たちがいたわけです。
だから、そういう点では科学というものは、もともと役に立つ、立たないとは関係なしにキ リスト教的な世界観とセットで生まれてきたもので、そこからキリスト教的な要素を脱臭していって、さらには数学を使ったきれいな論理体系に仕上げていくこ とによって、キリスト教を信じなくても理解できるようなシステムとして成立する。
それから世界じゅうに広まっていった、というような歴史を科学は辿ってきたわけです。


―科学は宗教から独立してきたということは、科学も一つの宗教と言えますか?


科学を宗教と言うと少し危険だけれども、昔は人々の自然現象に関する疑問に対して、科学の代わりに宗教が答えを出していたということは言えますね。

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